毒親との決戦日までの100日間(100日前)★★★※閲覧注意※★★★

毒親とは

毒親とは、「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉で、過干渉や暴言・暴力な

どで、子どもを思い通りに従わせたり、自分を優先して子どもを構わなかったりする「毒になる親」の

ことです。

自分の親が「毒親」と認識できない時、本来安心できる家族からなぜ傷つけられるのかわからず、自分

が悪いのかと落ち込んだり、辛い思いをします。

そして毒親であることに気づいてからも、親とかかわりをもつこと自体に大きなストレスがあります。

毒親をもつ人にとっては、家族という存在だからこそ、例え親が死んだ後も一生苦しみ続けることにな

ります。そんな、今まで避け続けてきた毒親と、この度会うことになりました。。。。。

私は、両親と元夫から精神的暴力を受けたことで、精神疾患に陥り、トラウマの治療を受けています

が、今も精神疾患を繰り返し、フラッシュバック等の体調不良に苦しんでいます。実際、もっと辛い経

験をした人もいる中で、自分のことを被害者づらして書くことに躊躇う気持ちの方が大きいです。

しかし、毒親をもつ人々にとって、親への対処方法は、多ければ多いほど生きていく上での安心材料に

なります。その一つの事例として、何か少しでも参考になることがあればと願って、

これから、「毒親との決戦日までの100日間」と称し、私の両親とのかかわる上での葛藤を記録してお

こうと思い立ちました。

自ら実験台となって毒親と直接対峙するまでの100日間において、体調や関係がどう変化していくのか

見ていただき、自身の親への気持ちの折り合いのつけ方、親への対処方法の参考になりましたら幸い

す。今回の記事では、私の家族の概要と高校生までの私の生育歴について、振り返っていきます。

人によっては、自分は大丈夫と思っていても自分のトラウマが活性化して辛くなってしまう記述もある

かもしれないので、その懸念のある人は、読まないようお願いします。

私の家族について

私が物心ついた頃から、形骸化した体裁重視の孤立した機能不全家族でした。

家族構成は、

父親

家のことは母親に任せきりの仕事人間。結果や体裁が全てでした。父親の言うことは絶対で、父親のお言葉を正座して聞いたり、子どもである娘たちが自分の思い通りにならないと常に謝罪を要求する、一方的なコミュニケーションしかとれない人間。

母親

ヒステリックで逆上すると止められず、自分の殻に閉じこもり、子どもに対して暴言を吐いて自分の寂しさを満たす共依存の人間。

未熟児で生まれたため、幼い頃から家族に無理やり押さえつけられ、嫌がり泣き叫ぶ中ホルモン注射を毎日打たれていた。

人一倍甘えん坊だったが、私同様、母親の精神的暴力の餌食になったことで精神疾患を患い心を閉ざす。家族と徹底的に話さず部屋にこもっていたため、家族から腫物のように扱われる。

祖母(父方で同居)

父親の会社に心配で電話をかけてしまう程息子溺愛の、嫁にチクチク言うタイプの典型的な姑タイプ。

家族の環境

両親共に友人が一人もおらず、私が友人を家に招くことも禁止され、友人と遊ぶにも制限が多かったた

め、完全に孤立した環境でした。

閑散、どんよりした家の中とは対照的で、一歩外に出ると、実際とは真逆の幸せな家族をアピールする

ことに親は躍起になっていました。最初は違和感を感じていた私も、そのうち自分にも演じる理由がわ

かる時がくると信じ、家族と同じものを守り続けて理想の家族を演じ続けました

暗黙のルールで構築された家庭で、この危ういバランスを保たなければ破壊されるという圧力が家中を

埋め尽くしていました。私は物心ついた頃からこの異常な空間の中に居場所を見つけることに必死で、

周囲の状況に合わせた求められる役割を演じていました。

家族の誰もが直接的なコミュニケーションを避けていたため、私は物心ついた時から、伝書鳩のよう

に、両親間、嫁姑間も関係が良好になれるように立ち回る必要がありました。

私の生育歴(生後~高校時代まで)

生後~幼稚園

家族の間接的なコミュニケーションの伝書鳩として使われるうちに、次第にこのまま伝えると相手は怒

るからこのように伝えよう、と自分の中でかみ砕いて相手に伝える能力や仲裁能力が異常に身に付くよ

うになりました。幼稚園の頃になると、絵本を読むと親が喜ぶので、玩具などで遊ぶことはなくなりま

した。幼稚園では、おままごと等の模倣遊びの楽しみ方がわからず、遊びに混ざることができずにいま

した。

母親は甘えん坊な妹にかかりきりだったため、私は母親の気を引く一心で妹のお世話に励みました。

質問や問題に対し、母親の想う通りの回答が得られないと泣いても家に入れてもらえなかったり、親の

要求通りに応じないと身の危険を常に感じる環境でした。どれだけ頑張っても1年以上母親に目線さえ向

けてもらえなかったので、お門違いにも抵抗できない妹を恨んで殺そうとしたことさえありました。

妹を殺めようとしても誰も私のことを気にもとめず、私に罪悪感が残っただけでした。今思えば、その

時の私は何をしても振り向いてもらえない、無意味な存在なのだという無力感を感じていました。それ

以降、家族から認められる「素直で従順な子」になろうと必死に「相手の望むもの」を先回りして与え

ることで、不安定ながら自分の居場所を確立していきました。今思えば、この頃から相手が全てになっ

ていたことで、自分から何かを発信することがなくなっていました。父親は問題に気づいていたのか、

見て見ぬふりをしていたのかわかりません。父親は、家庭が崩壊していく度に良い家庭に見えるように

余計取り繕うことに必死になっていき、私たち子どもたちにはノータッチでした。

小学校

隔離され、人の要求を呑むことがコミュニケーションだと誤認して育ったため、友人の主張を全て受け

入れていた結果、小学校でできる友人も自然と皆支配的な子になりました。どんなことでも耐えられる

私に、いじめはエスカレートしました。家の方が辛かったために、学校では上手くいっているんだと勘

違いしていて、一方的受け入れ続けるコミュニケーションも特に問題に感じていませんでした。

もちろん、いじめと認識していないので、悲しみや辛さもありません。地雷だらけの親とかかわるよ

り、学校でいじめられている方が心が落ち着いていましたが、門限を過ぎると家に入れてもらえず逆上

した母親をなだめるのも一苦労なので、おとなしく家に帰っていました。

私が家以外の人間と交流をもつようになったことで、父親母親共に過干渉が悪化しました。私宛にくる

友人からの手紙を盗み見る等、交友関係が全て管理されるようになり、親が不適切と判断したものは一

切排除され、排除された事実は隠されました。手紙の返事がないこともいじめの要因になりました。私

は、親が手紙を捨てていることを知っても、逆上して仕打ちを受けるのが嫌なので、親に意見を言うこ

とはおろか疑問を尋ねることもできなくなっていました。この頃、このような親の言動から”全て正しい

親”という存在に、疑念を持ち始めるようになり、もはや誰も信用できなくなっていました。

宿題も私の実力で外に出すことが恥ずかしいと、親に宿題を取り上げられ、親が宿題を行っていまし

た。転ばぬように先に杖を出され、先回りして失敗を回避され、常に完璧を求められました。

母親はこの頃特に情緒不安定で、外で人とかかわると泣き出したりトラブルに発展することが多く、泣

きわめく母親と困惑する見知らぬ大人の間に挟まれて、私は火消しに躍起になっていました。外に出る

度に乱れる母親を安定させなければならないので、外出が億劫になっていました。気づけば私も父親と

同じように外側を取り繕うことに必死になっていました。

中学高校

特に母親のヒステリーが最も悪化した時期で、ことあるごとに自死を強要されて、何度も車に飛び込ま

させられていました。なるべく自殺とわからないように死んで来いと、どこでどのように車に轢かれる

かも指定されていました。何度も車に飛び込むも轢かれることができずに帰宅すると、なぜ死ねなかっ

たのかと罵倒され続けました。抵抗することが許されない中、勇気を振り絞りなぜ私に死を望むのか聞

いても、怒りと憎しみにこもった目で私を睨みながら、暴力と暴言で私の抵抗はねじ伏せられました。

親の期待通りの方法で死ななければならないのに、いつも車に轢かれることができず、家に帰っても帰

らなくても暴言と暴力という極限状態に陥り、自分一人では耐えきれなくなった時、初めて、親の言う

ように私が悪いからなのかを確かめてみたい気持ちが生まれ、友人に冗談っぽく話してみました。する

と、友人から友人の母親、私の母親に伝わり、「あなたが嘘をつくせいで私の立場がなくなった!私は

死ぬしかない!」と、更に私の存在が脅かされ続けることになりました。その日から、居場所をなくし

て追い込まれた親の安否を確認する日々が始まりました。自分のせいで親が死ぬかもしれない恐怖に怯

える私に、どうしてくれるんだと母親から迫られ、友人たちに「私が嘘をついた」とすることになりま

した。当然、友人たちは私の下から離れていき、私に近づく人は誰もいなくなりました。その時の私

は、学校で自分の居場所がなくなったことよりも、自分が、周囲を頼れない母親の居場所を失わせてし

まったことにショックを隠し切れませんでした。母親の機嫌が死活問題だったこともありますが、その

時は、可哀想な母親を悲しませることに、とてつもなく大きな罪悪感を感じていました。

「母の望みに応えられない私が間違っているんだ」「自分が感じた苦しいという感情自体間違いだっ

た」「死ねなかった私が悪かったんだ」と自分に何度も言い聞かせているうちに、何が本当で何が嘘か

わからなくなっていきました。今思うと、この頃からマインドコントロールにかかっていました。

私は、人に話したり、弱みを見せるとバレて何倍もの仕打ちになって返ってきた経験から、家族の問題

を口外することはなくなりました。疑問を持つこと自体が自身の生命を脅かすということを学び、

「可哀想な母親」を守るために、「自分が悪い」と自分を信じ込ませていました。

この頃から自分の感情がないもののようになり、感情を感じられなくなっていました。

この頃はいじめを認識できるようになっていたにも関わらず、学校では常にいじめを受けていました。

今までの親とのかかわりから「私はいじめを受けて当然の存在」であると疑問にすら思わず、私の唯一

できるコミュニケーション方法である、ただひたすら耐えることで凌いでいました。

過干渉でヒステリックな親にバレれば、余計刺激して家でも何をされるかわからないので、先生にも親

にも知られないよう気丈に振舞っていました。

この頃、私に初めて「部活」という拠りどころができました。道具なく、身一つでできる文化部で、親

に負担がかからない部活を選んだため、珍しく黙認してくれていました。ところが、大学受験のための

塾に通うようになると一転、勉学の邪魔だからと部活をやめるよう言われました。毎回塾に電話で出席

の確認をしていた親には、塾に通っていないことがすぐにバレて、暴言のオンパレードになりました。

お年玉を使って部活から塾にタクシーで向かい両立することで、中高6年間、部活という自分の唯一の

居場所を自分の力で守りきったことは、自分の大きな自信と安定に繋がりました。

いざ受験となると、行きたい大学を受験することは許されず、「お前はできないから」という理由で、

指定校推薦で女子高を受けさせられました。部活をやめさせようとしてまで塾に通った意味は何だった

のかと思いましたが、部活を辞めずに続けてきてよかったと、自分の選択に初めて自信を持つことがで

きました。このことにより、表では親に従っているように見せながら、裏で自分の思いを果たすことが

できることを学び、自分のことは全て偽って、親に迎合していくことで、自分の身を守っていくことが

できるようになりました。

父親は、家族と過ごしておらず、たまに会った時に「あなたのおかげで暮らせている」と父親の尊厳を

満たすことを意識さえしていれば安定しており、外側に「良い家族」を無理に演じる機会が減っていた

ことも救いでした。

高校までの成育歴をまとめて気づいたこと

トラウマ療法等で自分の過去に丁寧に向き合う中で、自分がマインドコントロールにかかり、自分を守

るためにスキーマを獲得し、不健全なコミュニケーションを学んでいたことに気づくことができました

が、自分がどの段階からおかしくなっていったか、詳細は不明なままでした。

そして、様々な治療を通じて、幼い頃から親からとてつもなく大きな罪悪感を常に植え付けられてきた

ことを頭ではきちんと自覚することができていながら、無意識に自分を責める気持ちが抜けないこと

や、解離してしまい自分の感情が感じられないことに苦しんでいました。しかし、今回自身の成育歴を

まとめる中で、それも自分を守るためだったということを心の奥底から真に理解できました。生きる

ために身体が懸命に防衛してくれていたと感じ、ここまで頑張ってくれた自分を大切にしなければなら

ないと改めて思えるようになりました。

学んできた不健康なコミュニケーションや自分の不当な取り扱いは、昔は自分を守る、必要不可欠なも

のだったけれど、親から離れ一定の安全が確保された今は必要なくなり、手放さなければならない。

手放さないと、自分の体調不良や精神疾患を繰り返し続けることになる。この仕組みが頭では理解でき

ているのに、なかなか手放せないことが今の私を本当に苦しめていますが、今回の自分の成育環境を

段階を追って客観的に振り返る試みを通じて、そのヒントを掴んでみたいと思いました。

次回は、私の大学時代以降の毒親とのかかわりについて、記載します。

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