毒親との決戦日までの100日間(100日前)

両親と向き合うまでの100日間。その始まりに、家族との関係と高校時代までの歩みを振り返った、私自身の記録です。

この記事は当事者の体験をもとに、見出しや表現を整理しています。治療に関する内容は個人差があり、診断・治療の代わりにはなりません。

この記事の目次
  1. 毒親とは
  2. 私の家族について
  3. 父親
  4. 母親
  5. 妹
  6. 祖母(父方で同居)
  7. 家族の環境
  8. 生後~幼稚園
  9. 小学校
  10. 中学高校
  11. 高校までの成育歴をまとめて気づいたこと

毒親とは

この記事は、2023年4月に執筆した当時の記録です。家族との関係や体調、今後の予定については、当時の状況を記しています。

毒親とは、「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉で、過干渉や暴言・暴力などで、子どもを思い通りに従わせたり、自分を優先して子どもを構わなかったりする「毒になる親」のことです。

自分の親が自分を傷つける存在だと認識できない時、本来安心できる家族からなぜ傷つけられるのかわからず、自分が悪いのかと落ち込んだり、辛い思いをします。

そして毒親であることに気づいてからも、親とかかわりをもつこと自体に大きなストレスがあります。

家族という存在だからこそ、親とのかかわりが長く苦しみとして残ることもあります。そんな、今まで避け続けてきた親と、この度会うことになりました。

私は、両親と元夫から精神的暴力を受けたことで、精神疾患に陥り、トラウマの治療を受けていますが、今も精神疾患を繰り返し、フラッシュバック等の体調不良に苦しんでいます。実際、もっと辛い経験をした人もいる中で、自分の経験を被害として書くことには、ためらう気持ちの方が大きいです。

しかし、毒親をもつ人々にとって、親への対処方法は、多ければ多いほど生きていく上での安心材料になります。その一つの事例として、何か少しでも参考になることがあればと願って、これから、「毒親との決戦日までの100日間」と称し、私の両親とのかかわる上での葛藤を記録しておこうと思い立ちました。

私が親と直接向き合うまでの100日間において、体調や関係がどう変化していくのか見ていただき、自身の親への気持ちの折り合いのつけ方、親への対処方法の参考になりましたら幸いです。今回の記事では、私の家族の概要と高校生までの私の生育歴について、振り返っていきます。

人によっては、自分は大丈夫と思っていても自分のトラウマが活性化して辛くなってしまう記述もあるかもしれないので、その懸念のある人は、読まないようお願いします。

私の家族について

私が物心ついた頃から、形骸化した体裁重視の孤立した機能不全家族でした。

父親

家のことは母親に任せきりの仕事人間。結果や体裁が全てでした。父親の言うことは絶対で、父親のお言葉を正座して聞いたり、子どもである娘たちが自分の思い通りにならないと常に謝罪を要求する、一方的なコミュニケーションしかとれない人間。

母親

ヒステリックで逆上すると止められず、自分の殻に閉じこもり、子どもに対して暴言を吐いて自分の寂しさを満たす共依存の人間。

妹

未熟児で生まれたため、幼い頃から家族に無理やり押さえつけられ、嫌がり泣き叫ぶ中ホルモン注射を毎日打たれていた。

人一倍甘えん坊だったが、私同様、母親の精神的暴力の餌食になったことで精神疾患を患い心を閉ざす。家族と徹底的に話さず部屋にこもっていたため、家族から腫物のように扱われる。

祖母(父方で同居)

父親の会社に心配で電話をかけてしまう程息子溺愛の、嫁にチクチク言うタイプの典型的な姑タイプ。

家族の環境

両親共に友人が一人もおらず、私が友人を家に招くことも禁止され、友人と遊ぶにも制限が多かったため、完全に孤立した環境でした。

閑散、どんよりした家の中とは対照的で、一歩外に出ると、実際とは真逆の幸せな家族をアピールすることに親は躍起になっていました。最初は違和感を感じていた私も、そのうち自分にも演じる理由がわかる時がくると信じ、家族と同じものを守り続けて理想の家族を演じ続けました。

暗黙のルールで構築された家庭で、この危ういバランスを保たなければ破壊されるという圧力が家中を埋め尽くしていました。私は物心ついた頃からこの異常な空間の中に居場所を見つけることに必死で、周囲の状況に合わせた求められる役割を演じていました。

家族の誰もが直接的なコミュニケーションを避けていたため、私は物心ついた時から、伝書鳩のように、両親間、嫁姑間も関係が良好になれるように立ち回る必要がありました。

生後~幼稚園

家族の間接的なコミュニケーションの伝書鳩として使われるうちに、次第にこのまま伝えると相手は怒るからこのように伝えよう、と自分の中でかみ砕いて相手に伝える能力や仲裁能力が異常に身に付くようになりました。幼稚園の頃になると、絵本を読むと親が喜ぶので、玩具などで遊ぶことはなくなりました。幼稚園では、おままごと等の模倣遊びの楽しみ方がわからず、遊びに混ざることができずにいました。

母親は甘えん坊な妹にかかりきりだったため、私は母親の気を引く一心で妹のお世話に励みました。

質問や問題に対し、母親の想う通りの回答が得られないと泣いても家に入れてもらえなかったり、親の要求通りに応じないと身の危険を常に感じる環境でした。どれだけ頑張っても1年以上母親に目線さえ向けてもらえなかったので、行き場のない感情が妹への憎しみに向かい、傷つけようとしたことさえありました。

妹を傷つけようとしても誰も私のことを気にもとめず、私に罪悪感が残っただけでした。今思えば、その時の私は何をしても振り向いてもらえない、無意味な存在なのだという無力感を感じていました。それ以降、家族から認められる「素直で従順な子」になろうと必死に「相手の望むもの」を先回りして与えることで、不安定ながら自分の居場所を確立していきました。今思えば、この頃から相手が全てになっていたことで、自分から何かを発信することがなくなっていました。父親は問題に気づいていたのか、見て見ぬふりをしていたのかわかりません。父親は、家庭が崩壊していく度に良い家庭に見えるように余計取り繕うことに必死になっていき、私たち子どもたちにはノータッチでした。

小学校

隔離され、人の要求を呑むことがコミュニケーションだと誤認して育ったため、友人の主張を全て受け入れていた結果、小学校でできる友人も自然と皆支配的な子になりました。どんなことでも耐えられる私に、いじめはエスカレートしました。家の方が辛かったために、学校では上手くいっているんだと勘違いしていて、一方的に受け入れ続けるコミュニケーションも特に問題に感じていませんでした。

もちろん、いじめと認識していないので、悲しみや辛さもありません。地雷だらけの親とかかわるより、学校でいじめられている方が心が落ち着いていましたが、門限を過ぎると家に入れてもらえず逆上した母親をなだめるのも一苦労なので、おとなしく家に帰っていました。

私が家以外の人間と交流をもつようになったことで、父親母親共に過干渉が悪化しました。私宛にくる友人からの手紙を盗み見る等、交友関係が全て管理されるようになり、親が不適切と判断したものは一切排除され、排除された事実は隠されました。手紙の返事がないこともいじめの要因になりました。私は、親が手紙を捨てていることを知っても、逆上して仕打ちを受けるのが嫌なので、親に意見を言うことはおろか疑問を尋ねることもできなくなっていました。この頃、このような親の言動から”全て正しい親”という存在に、疑念を持ち始めるようになり、もはや誰も信用できなくなっていました。

宿題も私の実力で外に出すことが恥ずかしいと、親に宿題を取り上げられ、親が宿題を行っていました。転ばぬように先に杖を出され、先回りして失敗を回避され、常に完璧を求められました。

母親はこの頃特に情緒不安定で、外で人とかかわると泣き出したりトラブルに発展することが多く、泣きわめく母親と困惑する見知らぬ大人の間に挟まれて、私は火消しに躍起になっていました。外に出る度に乱れる母親を安定させなければならないので、外出が億劫になっていました。気づけば私も父親と同じように外側を取り繕うことに必死になっていました。

中学高校

特に母親の激しい言動が悪化した時期で、ことあるごとに自死を強要される、命の危険を感じる状況が続いていました。抵抗することも許されず、勇気を振り絞って理由を聞いても、暴力と暴言でねじ伏せられました。

家にいても離れても暴言と暴力にさらされる極限状態でした。自分一人では耐えきれなくなった時、初めて、親の言うように私が悪いからなのかを確かめてみたい気持ちが生まれ、友人に冗談っぽく話してみました。すると、友人から友人の母親、私の母親に伝わり、「あなたが嘘をつくせいで私の立場がなくなった!私は死ぬしかない!」と、更に私の存在が脅かされ続けることになりました。その日から、居場所をなくして追い込まれた親の安否を確認する日々が始まりました。自分のせいで親が死ぬかもしれない恐怖に怯える私に、どうしてくれるんだと母親から迫られ、友人たちに「私が嘘をついた」とすることになりました。当然、友人たちは私の下から離れていき、私に近づく人は誰もいなくなりました。その時の私は、学校で自分の居場所がなくなったことよりも、自分が、周囲を頼れない母親の居場所を失わせてしまったことにショックを隠し切れませんでした。母親の機嫌が死活問題だったこともありますが、その時は、可哀想な母親を悲しませることに、とてつもなく大きな罪悪感を感じていました。

「母の望みに応えられない私が間違っているんだ」「自分が感じた苦しいという感情自体間違いだった」「期待に応えられない私が悪かったんだ」と自分に何度も言い聞かせているうちに、何が本当で何が嘘かわからなくなっていきました。今思うと、この頃からマインドコントロールにかかっていました。

私は、人に話したり、弱みを見せるとバレて何倍もの仕打ちになって返ってきた経験から、家族の問題を口外することはなくなりました。疑問を持つこと自体が自身の生命を脅かすということを学び、「可哀想な母親」を守るために、「自分が悪い」と自分を信じ込ませていました。

この頃から自分の感情がないもののようになり、感情を感じられなくなっていました。

この頃はいじめを認識できるようになっていたにも関わらず、学校では常にいじめを受けていました。

今までの親とのかかわりから「私はいじめを受けて当然の存在」であると疑問にすら思わず、私の唯一できるコミュニケーション方法である、ただひたすら耐えることで凌いでいました。

過干渉でヒステリックな親にバレれば、余計刺激して家でも何をされるかわからないので、先生にも親にも知られないよう気丈に振舞っていました。

この頃、私に初めて「部活」という拠りどころができました。道具なく、身一つでできる文化部で、親に負担がかからない部活を選んだため、珍しく黙認してくれていました。ところが、大学受験のための塾に通うようになると一転、勉学の邪魔だからと部活をやめるよう言われました。毎回塾に電話で出席の確認をしていた親には、塾に通っていないことがすぐにバレて、暴言のオンパレードになりました。

お年玉を使って部活から塾にタクシーで向かい両立することで、中高6年間、部活という自分の唯一の居場所を自分の力で守りきったことは、自分の大きな自信と安定に繋がりました。

いざ受験となると、行きたい大学を受験することは許されず、「お前はできないから」という理由で、親の意向に沿った進路を選ばされました。部活をやめさせようとしてまで塾に通った意味は何だったのかと思いましたが、部活を辞めずに続けてきてよかったと、自分の選択に初めて自信を持つことができました。このことにより、表では親に従っているように見せながら、裏で自分の思いを果たすことができることを学び、自分のことは全て偽って、親に迎合していくことで、自分の身を守っていくことができるようになりました。

父親は、家族と過ごしておらず、たまに会った時に「あなたのおかげで暮らせている」と父親の尊厳を満たすことを意識さえしていれば安定しており、外側に「良い家族」を無理に演じる機会が減っていたことも救いでした。

高校までの成育歴をまとめて気づいたこと

トラウマ療法等で自分の過去に丁寧に向き合う中で、自分がマインドコントロールにかかり、自分を守るためにスキーマを獲得し、不健全なコミュニケーションを学んでいたことに気づくことができましたが、自分がどの段階からおかしくなっていったか、詳細は不明なままでした。

そして、様々な治療を通じて、幼い頃から親からとてつもなく大きな罪悪感を常に植え付けられてきたことを頭ではきちんと自覚することができていながら、無意識に自分を責める気持ちが抜けないことや、解離してしまい自分の感情が感じられないことに苦しんでいました。しかし、今回自身の成育歴をまとめる中で、それも自分を守るためだったということを心の奥底から真に理解できました。生きるために身体が懸命に防衛してくれていたと感じ、ここまで頑張ってくれた自分を大切にしなければならないと改めて思えるようになりました。

学んできた不健康なコミュニケーションや自分の不当な取り扱いは、昔は自分を守る、必要不可欠なものだったけれど、親から離れ一定の安全が確保された今は必要なくなり、手放さなければならない。

こうした習慣が今の自分の苦しさにもつながっているのだと、私は感じています。この仕組みが頭では理解できているのに、なかなか手放せないことが今の私を本当に苦しめていますが、今回の自分の成育環境を段階を追って客観的に振り返る試みを通じて、そのヒントを掴んでみたいと思いました。

執筆当時の続編について:次の記録では、私の大学時代以降の毒親とのかかわりについて、記載します。(当時の構想であり、現在の公開予定を示すものではありません。)

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